連載記事 飯塚悦功
第13回 人間尊重経営

1. 品質管理は人質管理

マネジメントの原則に関わる話題を長々と続けて来ましたが、その最後の話題として「ひと」を取り上げたいと思います。

わが国の近代的品質管理は第二次大戦後に始まったと言ってよいでしょう。アメリカの占領政策に必要な通信機器の品質管理がその最初であったとのことです。しかし、その後の品質立国日本を支える潮流の源は、日本科学技術連盟や日本規格協会による普及・啓発にありました。先生はアメリカです。1950年から3年続けて統計学者デミング博士がやってきます。このとき寄付された講義録の印税をもとに「デミング賞」が創設されました。1951年のことです。1954年にはジュラン博士がやってきます。「経営における品質の意義」についての教えはジュラン博士によるところが非常に大きかったと言えます。その後10年程度のうちに、日本の品質管理界は産学協力のもと、アメリカから学んだ科学性にマネジメントにおける「ひと」の重要性を加味した、独特の品質管理を発展させていきます。現場第一線の作業者・事務員による全員参加型の改善活動を展開する「QCサークル」はその代表でした。

日本の品質管理は、マネジメントにおける人間の重要性を指摘し、組織を構成する人を、マネジメントシステムを構成する無機的な部品、あるいは賃金という代価を支払って買った知的能力・肉体的能力の保有者として扱うことはしませんでした。そうではなく、人間を、意欲のある、考える力をもった、創意工夫を重ね、問題を解決し、新たな価値を生み出す、不可思議な魅力的存在と認め、正しく処遇することを推奨したのです。

「品質管理は人質管理」と言われることもあります。製品・サービスの品質を管理することは、すなわち、その製品・サービスを産出する組織の構成員の質の管理にほかならない、という意味です。品質を決定づけるあらゆる要素、つまり技術も、業務手順も、プロセス(工程)も、設備も、組織運営も、仕事の仕組みも、情報システムも、知識基盤も何もかもが、突き詰めれば人間が企画し、設計し、実現し、運営するからです。「人質」すなわち「人の質」は「じんしつ」と読んでほしいのですが、「ひとじち」と読めてしまうのがご愛敬というか、思わずニヤリとさせられてしまいます。でも、品質管理の極意を垣間見る思いがします。

品質管理において、人は、仕事に主体的に取り組み、自分の職場の問題・課題を解決することによって自分自身を成長させ、より豊かな人生を送るようにすべきであり、そうしたときに、組織としても効率が上がり、何よりも質の良い製品・サービスを提供できるとしています。人の能力を伸ばすための教育・訓練を熱心に実施するだけでなく、問題解決能力、課題達成能力を高めるためのインフラ整備も重要と説いています。

品質管理界には、よく意味を聞かないと分からないフレーズが数多くあり、「品質管理村の方言」などと揶揄されます。上述の「品質管理は人質管理」とか、「後工程はお客様」とか、「KKD(経験・勘・度胸)」とか、「品質は工程で作り込め」などです。そうしたフレーズのなかに「品質管理は教育に始まって教育に終わる」というのもあります。品質管理においては人が重要で、人の能力を向上し意欲を増すための教育が重要だ、という意味であることは、ことさら説明を聞かなくてもお分かりになるでしょう。もっとも、ここでいう教育とは、いわゆる学校教育、知識教育、知識付与という意味でのeducationばかりでなく、確立した体系的知識の教育、技能・技術・スキルの訓練などの意味でのtrainingも含み、さらにはOJT(On the Job Training:実業務での訓練・経験)、Job Rotation(人事異動、適材適所)などの人事処遇を通じた能力向上までをも示唆しています。

いまでは非正期雇用者が多数雇用されている国になってしまいましたが、その昔の日本は終身雇用が常識だったこともあり、企業にとって教育・訓練は十分に見合う投資であり、総力を挙げて人を育て、そして良質製品を作り出していました。産業構造の変化に対応して人件費を抑えるために現在のような雇用形態が広まってしまいました。雇用形態を昔のように戻すか、労働流動性が高くても、産業社会全体としては十分な教育・訓練がなされるようにしていかないと、これからの日本は難しいのかなと思います。

2. 自主管理

いまから30年ほど前、アメリカのとある会社にいったとき、管理・マネジメントの意味が、日本とはずいぶん違うなぁと思ったことを思い出します。アメリカのマネージャは、自分の責任範囲については、自分一人で計画を立て、部下に指示し、部下から報告を受けて仕事を進めます。部下は言われたこと以上はほとんどしません。同僚の責任範囲のことまで手出しをすることも基本的には御法度です。

日本の品質管理は、きれいごとを大袈裟に言えば、管理における2種類の人間、すなわち「管理する人/される人」という構図を否定したと言えなくもないなぁ、なんて感じていました。もちろん現実はそれほど甘くなく、優秀な人材には権限委譲し、意思決定をできるだけ任せ、自主的に運営するよう仕向けますが、そうでない人には……、というところです。

機能(はたらき、役割)としての管理者はあり得ますが、それはその人の管理者としての機能を認めているだけのことです。その人が、人間として偉いわけではありません。管理がその本来の意味(=目的を継続的に効率よく達成するためのすべての活動)であるなら、全員が「管理する人」でなければおかしいことになります。そして、もしも管理が、「監視する、締めつける、統制する」というような意味を持つなら、その意味での「管理する人/される人」という構図はおかしいことになります。

これまた「きれいごと」との批判を受けそうではありますが、品質管理は、人を命令に服従させるよりも、自主的に考え実行できる人間にするほうが効率的な運営ができると考えていると言えます。もちろん、誰もが高い管理能力をもっているわけではありませんので無制限に拡大することはできません。でも、責任・権限の委譲は能力に応じてなされるべきであって、地位や階級概念によって制限されるべきではないとしています。

アメリカの会社の製造工場では、検査する人が沢山いることにも驚きました。作業者は、技術者、管理者が決めたマニュアル通りに作業をして、検査員が、その結果を、やはり技術者・管理者が決めた基準・方法で検査します。ときに検査員がまともな検査をしない恐れがあるので、二重に検査したりします。

日本の製造現場には、ずいぶん前から自主検査、自主管理というのがあって、作業者が自分で製造したものを自分で品質確認するなど、自主的な改善活動を行っていました。アメリカの製造現場の管理者から見れば、日本の方が異常だと思ったことでしょう。作業者に自分で検査させたり改善させるなんて、まさに驚天動地の管理法と思ったに違いありません。

管理スタイルを語るとき、性善説でいくかそれとも性悪説でいくか、というような視点があります。性悪説に立てば、作業者は、ずる賢い性悪人間で、目を離したら何をするか分からないから、検査をさせるなんて、「泥棒に追い銭」とはこのことか、くらいに考えるでしょう。いや、性善説、性悪説というのは少し違うかもしれません。良い人か悪い人かではなく、自分で計画して、自分で管理できると認めているかいないかの違いかもしれません。

当時の興味深い調査のひとつに製造現場における検査員の比率というのがあります。日本で3%、アメリカで15%というのです。これがどのくらいきちんとした調査に基づいているかは知りませんが、当時の感覚にはしっくりくる数値です。日本では、その追い銭をされた泥棒が、信じられないほど安定した品質の製品を作り出し、そして自主的に改善までするのですから、まさに不思議の国、ニッポンと思ったことでしょう。日本人というのは、黙ってニヤニヤしていて何を考えているか分からないが、やらせてみると実にまともなことをする、何とも不思議な人種だと恐怖さえ覚えたことでしょう。

ところで、「自主的」というのはなかなか難しい表現です。下手をすると独善、身勝手につながります。この点でも、その昔の自主検査、自主管理というときの「自主的」というのは、抑制の効いたオトナの自主でした。自主的とはすなわち勝手に何をしても良いということだ、などという論理を振り回し、能もないのに偉そうに権利だけ主張し、まっとうなアウトプットを出せない人々とは一線を画していました。

昔話が過ぎました。時代の差、世代の差というより、個人の違いと受けとめておきましょう。自主管理という考え方は素晴らしいですが、それは関連する人々全員が、管理にできるだけの意欲と能力を持っていることが前提で、これもまた能力開発、人材育成によって実現しなければならないことではあります。

3. 全員参加

品質管理は、組織のアウトプットの質を効率的に確保するには全員が参画するのがよいと推奨しています。この考え方はどこから生まれてきたのでしょうか。「管理」に上から下まで全員が主体的に参加するというのは、それほど自然に生まれてくる考え方ではないようにも思います。

アメリカから学んだ品質管理を発展させていった過程における美しい誤解から生まれたと言えるかもしれません。“Total”の意味の誤解です。日本がアメリカから品質管理を学び始めて間もなく1958年に視察団を出しました。そこでファイゲンバウム(Feigenbaum)の提唱するTQC(Total Quality Control)という言葉を知ります。この“Total”は、全社の品質担当部長だけでなく、すべての部門に品質マネージャを置くべきという意味でした。

ところが、TQCという魅力的な名称を聞いた日本の視察団は、この“Total”の意味を広く受けとめて、ファイゲンバウムが指摘した「すべての部門」ということも含め、3つの意味を持たせたのです。上は社長から下は第一線の作業者、事務員まで「全員」で、品質のみならずコスト、納期、安全など「すべての管理目標」を総合的に管理するというようにです。この「上から下まで全従業員」というのが「全員参加」につながったということです。1960年には、「みんなでやる品質管理TQC」なんていう言い方が広まりました。

しかし、管理の本来の意味(目的を継続的に効率よく達成するためのすべての活動)を落ち着いて考えてみれば、全員が「管理する人」として組織運営に参画するのが得策ですから、上手に拡大解釈したものだと思います。全員が、何らかの役割を持って組織のアウトプットの質に直接・間接に関係しているのですから、全員が参画しなければ品質の良い製品・サービスは提供できません。

同じような意味で、品質管理の推進において、品質管理の専門家は必要ないという考え方もあります。「えっ、本当ですか?」と疑問を持たれる方も多いことでしょう。どんな分野でも専門性は必要ですし、品質という妙な考え方や難しい方法論を駆使するのですから、エキスパートは必要との考えも不思議ではありません。必要なんですが、頼り過ぎてはいけない、任せっぱなしにしてはいけない、という意味なのです。品質管理に関わる組織の能力は、最終的には組織に内在する能力にしなければなりません。自分でできるようにしなければダメなんです。品質は○○くん、安全は○○さんの仕事で、私は関係ない、というような組織運営の恐ろしさは容易に想像がつくと思います。品質保証は品質保証部門に任せておけばよいと思われたら非常にまずいことになります。もちろん方向性は提示するし、全社的な調整はしますが、現実に品質保証をしているのは全社の全従業員なのですから。

「QCサークル」などの小集団活動は、全員参加の推進にはとても良い方法と思います。QCサークルは、日本の品質管理が生み出した全員参加の場の提供ツールだと言えます。現場第一線を巻き込んだ「全員による改善」の場、「グループワークによる相互啓発」の場を提供する仕掛けとして、その意義は非常に大きいと言えます。

QCサークルが有効に機能するためには、管理者層の理解、指導、支援が重要です。適当に遊ばせておけばよい、なんて考えているとしか思えない管理者もいますので注意が必要です。QCサークルというのは、公式の組織運営を超えて、半ば非公式の組織でありながら、そして自主的に、と言いながら、部門の課題に関係するテーマを全員参加で改善していく、全員参加型の管理、改善を通した能力向上など、実に巧みな方法論だと思います。

ところが、QCサークルは、ひところのブームが去り、また品質管理の求心力が低下して全国的な大会などの参加者が減ってはいるようですが、形にとらわれず、誰もが改善を進める場として運用していければと思います。昔は、QCサークルの重鎮みたいな人が、QCサークルの「綱領」とか「運営の基本」に書いていないやり方に対して、「それはQCサークルとは言えない」などと妙なことを言うこともありましたが、全員参加の改善の場という「経営機能」を果たせれば、運営の形はどうでもよいと思います。

「改善提案」という面白い制度もあります。いろいろな運営方法があるようですが、私は、効果は二の次で、様々な提案を受けどんどん採用していく形がよいと思っています。効果をあまり気にしないというのが変だと感ずる方がいらっしゃるかもしれませんが、提案の根拠がそれなりに書いてあれば、効果にはあまり関係なく小さな表彰をし、大きな効果が上がれば別途表彰するというような運営でよいのではないかと思っています。

提案の根拠というのがミソで、「ルール、標準はこうなっているが、このような理由で、こうした方がよい」と提案してもらうことで、皆が自分がどのような役割を果たすことになっていて、それに関わるどのような作業標準があるか、きちんと読み理解しようとするわけです。これが本当の全員参加を促し、正しい仕事をするための根拠となるプロセスを意識するようになります。

4. 後工程はお客様

全員参加は、全員が自分の役割を認識することから始まるということから、連載第2回(品質に関する正義(1)、2018年5月号)で触れたことのある「後工程はお客様」という考え方が、意味のある全員参加のために効果抜群と思います。

「後工程はお客様」とは、品質とは顧客満足であり、では顧客は誰かと考えてみると、外部のお客様以外にも社内にも大勢いるという教えでした。例えば、経理部門の一担当者が、「私は事務室の片隅で帳票を処理しているだけだから品質には関係ない」というのは間違いということです。「後工程はお客様」という表現が示すように、組織内にも顧客がいて、それら内部顧客に品質保証された業務を提供することによって、巡り巡ってお客様の満足につながります。自分の職務の位置づけ、役割、意義を理解し、それぞれが質の良い仕事をすることによって組織全体として、良質な製品・サービスを効率的に提供できるという教えです。

「みんなでやろう」と呼びかけても、自分一人ぐらいはいいだろうと皆が考えて、「だれもやらない」という結果になるのを何とかしようという標語でもありました。「おみこし社会」の日本には、こういう行動原理の示し方は有効と思います。「おみこし社会」とは、「中にはぶら下がっている人がいて誰が貢献しているか分からないし、何かあっても誰の責任か分からないけれど、とにかく皆で担いで全体としては前に進んでいくおみこし」という意味です。

連載第2回の「後工程はお客様」の項で紹介しましたが、アメリカでは、この教えが契機になって「内部顧客」と「プロセスオーナー」という概念が生まれました。「内部顧客」は、組織内における価値提供連鎖、より広くは組織間も含めたバリューチェーンの認識にまでつながります。人がやる気を出すのは、何といっても、自分自身の組織における位置づけ、とくにその重要性が理解できたときです。その意味で、自分の仕事の結果として、どの部門の誰にどのような価値を提供しているのか考えることは極めて有効と思います。

人間尊重経営という視点からは、オーナーシップという概念はもっと重要かもしれません。ともすると、統制されているだけだとの感覚を持ちかねないアメリカ流の経営スタイルにおいては、一介の作業者・事務員にもそれなりのオーナーシップがあるという認識は貴重と思います。日本の経営スタイルは、何と申しますか、もう少し暖かいところがあるように思いますが、日本人にとっても自分に主体性が認められているという感覚はとても大切と思います。

それにしても、こんな変な表現が、人間尊重経営、ひと中心経営を実現するための基本概念を形成しているとは、日本の品質管理って妙な方法論です。「後工程はお客様」という概念、行動原理は、一人ひとりが頑張って価値を生み出す連鎖が形成され、全体が有機的に動き始めるという組織運営を可能にする教えなのです。

5. ひと中心経営

日本の品質管理は、米国から学んだ科学性に、人間的側面への配慮を加えて、1970~80年代に、工業製品の大衆化による経済高度成長という、時代に適合した経営ツールとして大成功を収め、世界の脚光を浴びました。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」、「エクセレント・カンパニー」、「カイゼン」、「日本的経営」などと言われてもてはやされました。

その日本的品質管理の特徴を挙げるなら、第一は、品質に対する真摯な取り組み、つまり極めて深い意味での顧客志向の経営だと思います。そして第二は、人の意欲、能力、組織への忠誠などに焦点を当てる人間中心の経営にあったと思います。日本の「ひと中心経営」とはどのようなものだったのか、少し考察しておきたいと思います。

(1) 技術・マネジメントの補完と超越

「ひと中心」の考え方の根底には、組織のパフォーマンスは人で決まるということがあります。良い製品・サービスを提供するためには、なんと言っても製品・サービスに固有の技術が必要です。でもそれだけでは不十分で、固有技術を生かすマネジメントが必要です。それに加えて、固有の技術を埋め込まれたマネジメントシステムにあって、考え動く「ひと」が重要です。どんなに優れた技術やマネジメントシステムがあっても、「ひと」がまともでないと良いものはできません。

「ひと」に内在する技術・知識、技能、そして意欲がまともでないと、せっかくの技術もマネジメントシステムも生きてきません。だから、組織を構成する人々に対して、教育・訓練を行い必要な知識を習得し、技能を保有できるようにするのです。能力向上のための機会も提供します。さらに、人々の意欲を向上するための施策をさまざまに工夫します。教育・訓練の機会そのものがそうですし、改善活動もそうです。経営や管理への参画も士気を高めます。外部との交流、相互啓発もそうです。人事交流や処遇改善なども士気の向上に役立ちます。とにかく、皆が生き生きと働くことによる効果には大きいものがあります。

結局のところ、「ひと中心」という考え方は、マネジメントにあたり、「ひと」の能力を引き出すことの重要性に目を向けようということなのです。品質の良い製品・サービスには、技術、マネジメント、そして「ひと」が必要だと言いました。この「ひと」は、単にこの3つの要素の1つとしてではなく、技術とマネジメントを補完し超越する能力を有するものとしてとくに重要です。技術的によく分かっていなくても、マネジメントシステムとして不備があっても、それを補い超えることができるのが人間です。

品質達成の車の両輪と言われる、技術と管理の不備を補い、ときに超越してしまうもの、それが人間ということです。だから、単にある業務をこなす能力を持っている「ひと」とだけ理解しているのはもったいないことです。

(2) 人間尊重

「ひと中心経営」においては、人間、人間性を尊重します。すべてのひとは、程度、型の相違はあれ自己実現を望んでいます。ひとを業務遂行マシンとして買うのではなく、人間として丸ごと受け入れ、それぞれの自己実現を支援し、それが組織目的に合致するような経営、それが人間尊重経営だと思います。

(3) 個と組織のWin-Win関係

「ひと中心経営」においては、個人と組織の関係の円滑化、すなわち個と組織のWin-Win関係に腐心します。個々人はそれぞれの価値観をもち、したいことがあります。それがある組織に集い、組織目的を達成するために体系的な活動をします。このとき生じる様々な矛盾、考え方の相違を克服し、組織として価値観を共有できる経営をすることが重要です。そのための様々な運営の工夫、経営スタイルもまた「ひと中心」と言えます。

(4) 人の弱さの克服・許容・補完

「ひと中心経営」においてはまた、人の弱さの克服・許容・補完に意を注ぐ経営を行います。典型的な例はヒューマンエラーに対する対応です。例えば、ミスをしたとします。なぜなぜと責められて、自分の存在そのものが根本原因だと心の底から思って、死なないまでもひどく落ち込んでしまうような管理ではやる気が出ません。「会社なんて、俺たちを利用して利益を出しているのに、手順に不備があってミスを誘発するような状況を作っておいて、ミスをするお前が悪い、なんて言われたら、やる気もなくなる」なんてことになっては大変です。ヒューマンエラーに対する対応は、ひと中心のマネジメントをしているかどうかもありますが、そもそもヒューマンファクター工学にどれほど精通しているかによって、まったく月とスッポンほども違ってしまうと思います。

「間違えるお前が悪い」と責めても事態は改善しません。「人は誰でも間違える」のです。いや「間違えるから人間」と言ってもよいでしょう。そう達観して、ある程度の間違いをすることを前提にして、人間中心システム設計によってミスの起こりにくい、そしてたとえミスを起こしても大事に至らない業務システム設計を行い、改善を続けるようなマネジメントをしていくべきです。

考えてみれば、こうした考え方が品質管理から出てくるというのも興味深いことです。でも、普通の人々が集まって、良いモノを効率的に作りたいと考えれば、当然、このような考え方に行き着くのも理解できます。品質管理というのは合理的な実学なんです。

こう考えてみると、ひと中心とは、何とも日本的な、いや東洋哲学的な経営だと思います。短期的視野、限定された範囲での科学的合理性を超えて、非常に懐の深い悠久の経営だなぁと感じ入ってしまいます。

問題

[1] 経済成長が鈍化し、それゆえ人事処遇制度を大きく変える必要が生じ、労働流動性が高まり、非正規雇用が増えるという労働環境にあって、「人間尊重経営」の本質を変えることなくどのように軌道修正すべきか考察してみて下さい。

[2] あなたの組織において、「自主管理」は、どの領域で、どの程度まで、どのように具現化されていますか。どのような改善の余地がありますか。

[3] あなたの組織において、組織全体の経営機能において各個人がどのような機能を果たすべきかについての認識を深める試みがなされていますか。あなたは何のために何をどのようにすればよいか理解していますか。

[4] あなたの組織では、製造現場のみならず、いわゆる事務部門、間接部門においても、ヒューマン・エラーに配慮した業務システム設計がなされていますか。どこに改善の余地があると思いますか。