2周回遅れの日本のKM


ナレッジマネジメント(KM)の取組みは、日本では2000年前後のブームが過ぎると廃れましたが、欧米では着々と経営手法として定着し、それがISO 30401(ナレッジマネジメントシステム)の発行につながりました。ナレッジ・アソシエイツ・ジャパン代表取締役社長の荻原直紀氏は、現在起きている日本企業の品質や技術継承の問題の原因の1つはKM不足にあると説いています。荻原氏によるISO 30401の解説記事は、アイソス2020年4月号から9月号まで連載されました。本稿はその中の第2回の記事(2020年5月号)です。

日本企業にとってのナレッジマネジメントシステム規格の意味合い



前号では、日本企業の抱える課題の一因がナレッジ・マネジメント(以下、KM)不足にあること、グローバルにはKMは当たり前の経営手法として定着しており、ナレッジマネジメントシステム(以下、KMS)の国際規格(ISO 30401)が2018年に発行されたことを紹介した。本稿では、KMを行っていない日本企業にとって、なぜISO 30401で求められることが重要なのかについて、他のマネジメント規格(とくに品質マネジメント)との関係にも触れながら説明し、規格の基本構造と意味合いを解説したい。

ナレッジ・マネジメントを行っていない日本企業に、はたしてナレッジマネジメントシステム規格を気にする意味はあるだろうか。この素朴な疑問に答えるために、前号で提示したKM不足と経営課題の関係(図表1)を再度見ていただきたい。



働き方改革(ナレッジワーカーの効率性に課題)も、イノベーション欠如(戦略的な知の新結合ができる状態にない)も、人財強化及び技術・技能伝承課題(知識・スキルの体系的な管理ができていない)も、組織として知識資産をマネジメントしてこなかったことが一因となり、経営課題として現れている。そうしてみると、経営手法としてのKMのあり方を定めた国際規格に日本企業が注意を向ける価値は、十分にあるのではないだろうか。



品質マネジメントとの密接な関係



とりわけ、本誌読者に多いと思われる、品質マネジメントに取り組み、ISO 9001認証を取得している企業及びその推進者には、KMS規格の意味するところは大きい。なぜなら、2015年版の改訂で、ISO 9001には要求事項として「組織の知識」が新たに追加されているからだ。「7.1.6 組織の知識」には次のように書かれている。

• 組織は、プロセスの運用に必要な知識、並びに、製品及びサービスの適合を達成するために必要な知識を明確にしなければならない。
• この知識を維持し、必要な範囲で利用できる状態にしなければならない。
• 変化するニーズと傾向に取り組む場合、組織は、現在の知識を考慮し、必要な追加の知識及び要求される更新情報を得る方法又はそれらにアクセスする方法を決定しなければならない。


この要求事項が意味することは、「品質の維持に必要な知識資産を特定し(1段落目)」、「その知識を業務に確実に活用できる状態をつくり(2段落目)」、「ニーズに応じた新たな知の獲得のあり方を明確にする(3段落目)」ことである。これはすなわち、組織的なナレッジ・マネジメントの要請に他ならない。また、この項には「組織の知識」が何を意味するかについて、丁寧な注記がある(以下、一部抜粋)。

• 組織の知識は、次の事項に基づいたものであり得る。
a) 内部の情報源(例えば、知的財産、経験から得た知識、成功プロジェクト及び失敗から学んだ教訓、文書化していない知識及び経験の取得及び共有、プロセス、製品及びサービスにおける改善の結果)
b) 外部の情報源(例えば、標準、学界、会議、顧客又は外部の提供者からの知識収集


ここで注目すべきは、「経験から得た知識、成功プロジェクト及び失敗から学んだ教訓、文書化していない知識及び経験」とある通り、品質マネジメントの規格が、わざわざ組織の知識とは形式知だけでなく、文書化され得ない技術や技能(「ワザ」「コツ」と言われてきたものを含む)、すなわち暗黙知が大切であると明確に謳っている点である。

この「組織の知識」に関する要求事項の追加は、ISO 9001の2015年度版の改訂で、もっとも大きな変更の一つである。そこに込められた意図は、品質を支えるのは組織の固有技術(強み・得意技)としての知識であり、その適切な伝承・共有・活用・更新が品質マネジメントには欠かせないということだ。裏を返せば、技術・技能の伝承や共有がなされず重要な知識を失った結果、品質問題に至るケースが多いということに他ならない。

したがって、「7.1.6 組織の知識」を厳密に適用すれば、ナレッジ・マネジメントを実施していない組織は、不適合(要求事項を満たしていない)と言われてもおかしくないと筆者は考える。現状の審査でそこまで指摘されることはないにしても、ISO 9001が組織的な知識のマネジメントの重要性をこれだけ明確に謳っている以上、品質マネジメントに真剣に取り組む企業は、ナレッジ・マネジメントの実施を考えるべきであろう。それは、ISO 9001に適合するという意味においてだけでなく、品質を維持・向上し続けるためには、強みの源泉となる知識資産のマネジメントが不可欠であるという本質的な理由からである。



イノベーション・マネジメントとの関係



2019年7月に発行された、イノベーション・マネジメントシステムの国際規格(ISO 56002)とKMS規格の関係にも触れておきたい。ISO 56002は要求事項規格ではなく、ガイドライン(指針)としての規格であるが、「規格や標準から縁遠い」と思われていたイノベーション・マネジメントシステムに国際規格としての合意がなされ、発行されたという点で、その意味合いは非常に大きい。日本でも、すでに経産省がイノベーション創出に向けた変革をめざす企業を増やすための指針に活用しているほか、一般社団法人Japan Innovation Networkがコンソーシアムをつくり、大手企業へのISO 56002実装の動きを加速している(筆者も活動を支援)。イノベーション創出に関心のない経営者はいないだろうから、この規格が企業経営のあり方に大きな影響を与えていくであろうことは、想像に難くない。

このISO 56002でも、「7.1.4 知識(Knowledge)」で「組織は知識マネジメントのアプローチを確立することが望ましい」と明記されている。強みとしての知識資産を特定し、活用できる状態にマネジメントしておかなければ、戦略的な知の新結合は起こせない。したがって、イノベーション経営にこれから舵を切る多くの企業にとっても、KMS規格(ISO 30401)が要求することは、密接な関連があるのである。



ナレッジマネジメントシステム規格(ISO 30401)の全体構造



では、実際にISO 30401は何を語り、何をすることを求めているのだろうか。ここからは、全体構造を概観したうえで、カギとなる要求事項とその意味合いを解説したい。

KMS規格の全体構造は、他のマネジメントシステム規格と共通である。詳しくは省くが、ISOはマネジメントシステム関連の規格の整合性を図るために、共通の上位構造と用語・定義を開発し、関連規格に適用している。そのため、ISO 30401の基本構造(図表2参照、翻訳筆者)は、品質マネジメントや環境マネジメント(ISO 14001)、情報セキュリティマネジメント(ISO/IEC 27001)などのそれと同じである。したがって、品質マネジメントなど他の規格をご存じの方には、馴染みのある構造のはずだ。



組織の状況を理解してKMの適用範囲を制定し(箇条4)、計画を立てたうえで(箇条6)、KMを運用する(箇条8)。その際に重要なのがリーダーシップの発揮(箇条5)と適切な支援・推進体制の確立(箇条7)であり、成果を測定し(箇条9)、継続的な改善を行う(箇条10)。きわめてオーソドックスなマネジメントシステムの原則をKMSにも適用することで、知識資産の特定・創造・伝承・共有・活用・更新の組織的な実施を要求しているのである。ここから先は、KMS規格のカギとなる要求事項とその意味合いに焦点を当てながら、解説を進めていきたい。



KMS規格が要求すること1:重要知識領域の特定



ISO 30401の重要な要求事項は箇条4に集中しており、そのなかでも「組織の目標にとって、もっとも価値の高い知識領域を特定し、評価し、優先付けよ」の一文はきわめて重要な意味を持つ。これは、前号のナレッジ・マネジメントの定義から得られる要諦(「重要な知識資産に的を絞ってマネジメントせよ」)と同じ指摘である。「価値の高い知識資産の特定」というタスクは、実は難易度と戦略性が高い。なぜなら、企業が置かれた文脈や設定した戦略スコープによって、知識資産の重要性や意味合いはがらりと変わりうるからだ。例えば、過去の遺物と思われていた枯れた技術が突然ヒット商品を生み出したり(文脈の変化による技術知識資産の高付加価値化)、日常的に接している顧客層との関係が他社から羨望のマーケットリーチとなってパートナーシップを組んだり(文脈変化による関係性資産の高付加価値化)ということは、実際によくある。

あなたの企業は存在意義や戦略の実現に向けて、価値の高い知識資産を特定できているだろうか。できていない状態で、イノベーション創出、品質向上、働き方改革という課題は、はたして解決できるだろうか。ISO 30401の要求する重要知識領域の特定は、あなたの企業の経営課題への問いかけでもあるのだ。



KMS規格が要求すること2:知の発展サイクルの確立



I同じく箇条4では、知の獲得→活用→保持→不要な知の処理という「知の発展サイクルの確立」を要求している(図表3参照)。必要な知識を獲得・創造し、活用して成果を出し、蓄積・伝承して重要な知を組織的に維持する。ここまではオーソドックスだが、この知の発展サイクルの特徴は、最後に「不要な知識の処理」があることだ。「役に立たなくなった知識を使うことでの失敗や非効率な業務を避ける」ための対処、すなわち、期限切れの知識の特定と廃棄、知識の更新とバージョン管理、新たな知に基づく人材の再トレーニングなどである。品質マネジメントの文脈でも、新たな技術や手順が導入されたにも関わらず、昔のやり方で業務を行い、生産性や品質に問題を発生させてしまうことは多い。不要になった知の廃棄までを行って、はじめて知のサイクルが完結するという考え方は、知識に基づいて行うあらゆる業務への示唆に富んでいる。



KMS規格が要求すること3:知の伝達と変換、すなわち知識創造プロセスの確立



箇条4は、「知の流れを促進する体系的な活動・行動」も要求する。これは前号でも触れた、野中郁次郎教授により提示された「知識創造プロセス(SECIモデル)」に他ならない。SECIモデル(図表4参照)は、組織が知識を創造するプロセスを体系的に示した理論であり、知の創造プロセスが知識の変換に基づく以下の4つのモードで構成されている。

1. 共同体験などを通じた共感をもとに本質を直観する「共同化」(暗黙知を基に新たな暗黙知を生み出す)
2. 対話や徹底した思索などを通じて直観した本質を概念・デザインにする「表出化」(暗黙知を形式知へ変換する)
3. 体系化や文書化など概念を理論化・仕組み化する「結合化」(形式知を組み合わせて新たな形式知をつくる)
4. 行動や実践を通じて形式知を身体化する「内面化」(形式知を行動に落とし込み暗黙知を生み出す)

この共同化(Socialization)、表出化(Externalization)、結合化(Combination)、内面化(Internalization)の4つのモードの英語の頭文字をとって「SECIモデル」と名付けられている。規格では「SECIモデル」という言葉こそ使っていないものの、「知の伝達と変換」という項で、知の変換の4つのモードの確立を要求している。日本発の理論がKMSの国際規格に実質的に採用されていることは、たいへん喜ばしいことであり、日本企業でのさらなる活用が期待される。





KMS規格が要求すること4:知の創造と活用を進める組織文化の確立



知識を他者と共有しようとするか、自分だけで独占しようとするか。ナレッジ・マネジメントは、知が闊達に飛び交う組織文化づくりでもある。そのため、ISO 30401もKMに適した組織文化の確立に取り組むことを明示的に要求している。さらに、「ナレッジ・マネジメント文化」という附属書をつけ、望ましい組織文化(問題をオープンに議論しやすい、自発的に活動する権限が与えられている、知識を隠さず共有するなど)の詳細な解説をわざわざ行っている。これは、本規格が組織文化の確立を重視している現れであり、裏を返せばナレッジ・マネジメントに適した組織文化をつくることがいかに難しいかということでもある。筆者も世界銀行(ワシントンDC)で上級知識経営担当官としてナレッジ・マネジメント推進にあたった際、もっとも苦労したのがこの点だった。優秀なエコノミストが世界中から集まり、昇進には次のポストに自ら応募して勝ち取る必要がある競争の激しい国際機関では、知識を共有するよりも、自分の中にしまい込んで独占するインセンティブが働いてしまう。しかし、こうした組織文化が組織的な知識の共有や活用を妨げ、組織パフォーマンスや効率性向上の妨げとなることは非常に多い。ISO規格において、組織文化というあいまいなものを要求事項としてあえて取り扱うことの意味合いは、非常に重いと筆者は考える。

以上、KMSの国際規格(ISO 30401)の特徴と他の規格への意味合いについて解説した。次回からはナレッジ・マネジメントの実装ガイドに入るが、まず、本稿でも触れた知識資産の定義の仕方を中心に解説していきたい。



【荻原直紀による連載記事「2周回遅れのナレッジ・マネジメント」一覧】



第1回:日本が直面する経営課題:実はナレッジ・マネジメントの欠如が一因 アイソス2020年4月号掲載
第2回:ナレッジマネジメントシステム規格の特徴と品質マネジメントへの意味合い アイソス2020年5月号掲載
第3回:戦略と重要課題に沿って知識資産を特定せよ アイソス2020年6月号掲載
第4回:段階的実装の重要性 アイソス2021年7月号掲載
第5回:KMガバナンスの重要性とその体系 アイソス2021年8月号掲載
第6回(最終回):経営者への提言をいかに行うか アイソス2021年9月号掲載




執筆者: 荻原 直紀

ナレッジ・アソシエイツ・ジャパン株式会社代表取締役社長
Knowledge Associates International(英国Cambridge) 取締役
ナレッジ・マネジメント、組織変革、イノベーション経営の研究・推進に20年以上関わり、数多くの国際機関、政府機関、国内外大手企業のナレッジ・マネジメントの戦略立案と実行を支援。元世界銀行上級知識経営担当官、経営学修士(Babson College MBA)